私たちが捉えることができる実態は極めて表層的な事物の現象に過ぎないのであろう。例えば、葉を繁らし(しげるらし)そびえる大樹の地中に潜む(ひそむ)、その巨木(きょぼく)を支え得る根の存在を私たちは把握することが出来ないように。菌類(きんるい)のような原始生命にはその細胞(さいぼう)の中に異なる二つ以上の核を共有するヘテロカリオンという特異な状態があるそうだ。喧騒(けんそう)にまみれ今日を生きる私たちには決して達し得ぬ(たっしえぬ)無垢(むく)な生命の規範(きはん)に、この時代の儚さ(はかなさ)と虚しさを痛感(つうかん)する。2008年 4月 門田光雅「ヘテロカリオン」小さいとき、暗闇の中、一人でトイレに行くのが怖かった記憶。眠りに就く前に天井板の木目が人の顔に見え、頭から布団を被ってもなかなか寝付けなかった夜。これは誰しもの体験にあるのではないだろうか。目に見えぬ存在を畏怖する想像力、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるが、夕暮れ時、風になびく枯れ尾花が恐ろしい幽霊と映ってしまうことがあるのだろう。しかし一方で、霊魂は枯れたススキのような生と死の境にある物質に宿り、具現化しているのかもしれない。あらゆるものが解明されつつある科学の時代の私たちである。物心つくにつれ、幼き日に見たオバケは枯れたススキにしかならないのであろう。事物が明瞭化していくことは、精神物との決別を意味している。今日の具現し始めた摂理的な限度と飽和、この時代の荒廃を精神性の喪失と重ね捉えるとき、現代の人間が忘却したものの重大さに気付くのである。 ヘテロカリオンとは生物学上の言葉で、細胞内に遺伝的に異なる複数の核が共存を維持する、菌類には比較的よくみられる現象である。それは逆説的に菌類のように単純無垢な関係を保つわけにはいかない、高度な生命においては自明的な滅びを意味しているのだろう。生物の一般はホモカリオン、つまり単一の核のみを有するのが通常だ。欲深に多くのものを得ようと望むこと、そこには自滅が内在している。獲得と喪失の均衡を持続することは、神霊が宿りうるほど清浄無垢な生命にしか達し得ぬ境地なのであろう。枯れ尾花は、ただのススキとなってしまった今日における崩壊の縮図は、この原始的な生命の規範に通じている。 2008年3月 門田光雅

展示期間 2008年04月17日(木) - 2008年04月27日(日)
展示場所 GALLERY